昭和 四十四年十一月十日朝の御理解 御理解 第四十五節
【世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげる事を忘れる。
神信心して身に徳がつくほどかがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出るとおかげ取りはずすぞ。】
何処を頂いても、まあ.御陰を受けなければならん事ばっかりですが、今日は特に
【出る釘うたれると、よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振り上げたりすることはないが、油断をすな、慢心出ると御陰を取り外すぞ。】と。
この辺の所、出る釘は打たれるというところですね、頭を打つというなら、天で頭を打つのが一番恐ろしいというところに焦点を置いて、まいりましょう。
世に三宝様を踏むなということ、これは大切な物、大事な物、( ? )思われるような物ですね、三宝様ここが凄いですこれは、ですから一番大切な物、( ? )穀物は私共の美味しい根でもあるんですから、これを粗末にしたり、踏みつけたりするようなことは目が潰れる。
私の子供の時にはね、ご飯粒踏みつけたりすると、目が潰れると、足が頭にひっついてしまう、なんて言われて居りましたがね。ですから勿論、穀物の根ですけども、ここんとこは心の目、心の成長を頂く為には、やはりその.ここ肉体に穀物が必要であるように心もやはりそれが必要である。特に信心の徳を受けて行こうという..いう..未来の求め信心を続けさせて頂くのでございますから、たとえてこの辺のところ大事にしなきゃならないことをはじめの所に解いてございます..ね.だから心の糧と言ったような物の、例えば教えを頂くと、有り難い教えを頂いたり、良い話しを頂く事を心の糧とこう申します。
その心の糧を頂いても、それを聞いても、それを頂かなかったら、その気にしたこと同じ事ですよね。良い話しを聞いても、聞いただけではそれを頂かなかったら、それはもうお粗末にしたことと同じ、折角頂いたのに、それを捨てたようなものと同じこと。
これは勿体無い。
和賀心の目が開けてくる、信心して肉眼をおいて心眼を開けとこう仰るんですが、ヨウートと心眼が開けようという..ん..そこんところに.ことをお粗末にして行くので、心に開けないに終わってしまわなければならん..ね。
そう、ここんところは、もうどのような..あ..言葉とか問題、様々な問題それはもうまず 私共の心の眼を開かせてもらう、いわゆる 私共の意義有る所の心、その心がいよいよ成長して行くことの為のそれなんですけれども、それを気づかずに、自分に部が悪いとか腹が立つとか、いやだといったようなものはそれを頂こうとしない粗末にする、それでは心の眼は開けない、というようなことを始めのとこの解いてございますね、そこんところをまあ置いて..ん..まあそういう御陰を頂いて段々身に徳がつくというか、だんだん御陰を受けて来て、御陰を受けて来ると、そこに身代が出来て来たり、又は先生と言われたりまあ皆さんの場合でいうなら、あ..総代とか幹部とか、何々長とか言われるようにこう、言われてくるように段々御陰を頂いてきた訳です。だからそういう御陰を頂いてくるとです、人間はと角頭を下げることを忘れる。
その辺ところからね、兎角出る釘は打たれると、何故打たれるかと.ん.危ないですもんね出る釘は打たなければ、自分だけではなくて、人までも怪我させますもん。
こげん所に例えば釘が出てるとしますと、やはり着物をひっかけて破りましたり、着物ぐらいなら良いけれども、やはり怪我をしたりいたします、人に怪我をさせます。
それを出すぎると..ね..出過ぎる事は、やはり危ないから神様はそこにお気付けをくださるわけですね。よく頭を打つと言うがということを、まず私は出過ぎておるなあと、少ーし分かってきたら、もう自分はもう慢心しておるなといったようなですね、風にまあ頂なきゃならんだろうとこう思うですね、そこでそのまあ出過ぎるということなんですけれども..ね、というてこれがですね 引っ込み過ぎたら御陰にならんのです、(?)兼ね合いが難しい、もう言わんがええ、もうせんがええ、もう誰かするじゃろうと、言いたいことも言わんでちゃんと引っ込んどると、こうなったら、しかしね..いけませんですね。
自分なすこしこう出過ぎらせんじゃろうかと思うくらい、くらいな私は信心が必要とである同時にですね、過ぎたるは及ばざる如しであるから、ブレーキを掛けさせもらう。
そこ辺の所の兼ね合いが、私は難しいじゃないかとこう思うんですね。
久留米の初代の石橋先生のことを、ここあの師匠( ? )桂先生が三代金光様の若い時ですね、金光様にそのことを自分の弟子達の事を色々とお伺いになった..ね。
「福岡の吉木はどうでしょうか? 久留米の石橋はどうでしょうか?」と言うてそのお伺いなった時に、金光様が石橋先生を表して、まあ表してと言うか、もうその言うておられますのに、「石橋さんこそ真の人ですなあ」とおっしゃった。と言うんですからね。
金光様から真の人と言われる、成れるその人柄というのは、思われますね、「石橋さんこそ真の人ですなと、出過ぎもせず、引っ込みも過ぎもせず、」とおっしゃたそうです。
ですから、出過ぎもせず引っ込み過ぎもせずという所にです。私は真の人ということを感じますですね、お互いが真の道に精進させて貰うのでございますから、やはりまず真の人に成る事を務めねければなりませんね、その真の人を目指さして頂くならば、今これ色々ございましょうけれども、自分が出過ぎておらんか、したらもう真の人過ぎてる、自分が
引っ込み過ぎておらんかとこういうことだったら、もう真の人への精進すらしとらんと言うてもいいくらいね、もう私どん、もう私どんが言うったっちゃ、もう私どんがせんでいいというな事にったらです、もう神様のつながりすら断ってしまうのですこれは、消極的と言うんですね、いわゆる、信心も積極的だと分からなければいけませんけども、その積極的ということもです、出過ぎたらいけんのです..ね..
内、内容にですもう止むに止まれんものを持っておる者が積極的にこうに、適当に出て現れてくるというような、私は信心を目指さなきゃ成らん、そこに私は真の人への精進があると思うんです、どうでしょうかね、皆さん。何の場合か、どっちかというと引っ込み過ぎの方がいいんじゃないでしょうか、積極性がない..ね..頭.天で頭打つこともあるまいけれども、それでは全然神様に認められることすら出来んのです..ね..まず打ってみならなきゃいけません、それではやはりまず活動しとかないかん..ね..動いとかなければいけない..ね..我が勝手にいかん、つきっぱなしでもいかん。
例えば電気がですね、今頃あのこう自転車でこう道を通りますと、あれは何の印しでしょうかね、点いたり消えたりする電気があの..ついてる所がありますですね。
小さい電気ですけれどもです、やっぱり目立ちましょうが、目につきましょうが、カーキ色に電気が点いたり消えたり、ついたり消えたりしてるですねあの、私昨日、一昨日福岡へ行った時にあそこなんか『のむら』かな、あの喫茶店のようなものがありますたい、三角のあそこ、あそこの入り口所であれがついとった、点いたり消えたり、点いたり消えたりしておる、だから( ? )活動してるわけですね、動いているわけです。
私共の信心も動いておらきゃだめです..ね..点いたり消えたり、点いたり消えたり。
私は..え..若先生が明日、朝の御祈念を奉仕いたします。自分の身体の、心の調子の良か時なんかもう、えらい勢い込んで大祓いでも奏上いたしましすが、何か向かったりしますとダラーと( ? )わからんような声出します、以前あれが後ろから手つつこうごたる気がしたんですけどもあれが生きてる証なんです..ね..ですから有り難いなと私は思うんです。
今日あたりなんか、何かダラーとしてましたね、昨日あのそれが一日御結界の御用させて頂いて少し疲れたと( ?)違いないだから今日ちっと眠かったちゃろう、だからすこうしこう勢いがなかった。勢いがなかったという事はですね、また勢いが出る、もうその癖になってしまってですね。いかにもその一つの型に填まってしまったらもうダメですね
( ?)有り難かった、有り難くなかったり、有り難い事ですよ..ね..ただしですね。
その有難かったり、有り難とうなかったり、有難くなかった所にどうしてというものがいつもなからないかんです、私はこうして毎日御参りしよるのにどうしてこんなに有難くなれんのだろうと、と言ったようなものです..ね..そこんところに追体験(?)があるわけです、その数こそが神様の目を引くのですよ..ね、その辺のところも大事にしてください+何時も同じやけん、それもいよいよ本当のものが出けてです、いつも有難いものが、
いつも有難いというならこりゃまたもういよいよ最高ですけれどね。
そこで私共がですね、出過ぎてはおらんか、引っ込み過ぎてはおらんかと絶えずそこんところ兼ね合いというものをい自分で頂いていき..ね、もういよいよ信心が消極的になってしまっておる自分であるならそこに奮い立たせなければならんしまた..あ..( ?)
感じて、え..はあこれが天で頭打ったんだろうかと感じたら、そこに一つのブレーキが
勿論必要で、とにかく内に喩えるられるもの、内容にいっぱしそれがチビチビとこう出汁に出てくるようにじわじわ出てくるようなものが私は必要ではないかとこう思う。
昨夜、夜の御祈念のあとに皆さんに聞いて頂いたんですけれども、昨日、御本部の..
堤さんという学院生から手紙が来た、三浦さんも、もう学院に修行しておりますが、丁度二人の手紙が一所についた、それを見せて頂きましたら、先日はどうぞ結婚式の為に( ?)参りました、そん時にえ..もう私一段落して一服おる時に、三浦さんが、その堤という友達を学院生の友達を連れてやってまいりました。まあいろいろ...お話をさせて頂いた中に、その三浦さんが部屋から出て行ってしまった時に( ?)「先生、折角まいりましたから..ね.ひと言御理解を頂かせてください」とこう言う、そいで私はもう十分か十五分かでしょうが..ん..暫くお話させて頂いた、その日一日の実例をとってお話をした、そのお話は御教えに基ずいてね。
【信心して、御陰のあるを不思議とはいうまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ。】
ということを私その日一日の私の体験を通してお話させて頂いた、非常に感動しておった、それが何故感動しておったかというと、学院生が全部学院長に連れられて御本部の広前から奥城に毎朝お礼に出るわけですね、奥城にお礼に出る時にその御教えを一か条づつ頂くんだそうですね。この教典の中から、百七十何節の中からですね、一節づつ頂いて行くわけなんです。
まあ読んで頂くわけ、一緒に読むだけなんですけれども、ところがその日の朝の御理..(解)読ませて頂いたのがそのみ教えだったちゅうわけ、こちらの新聞を見せて頂いて、皆さんから合楽の話を聞かせて頂いて、大体想像はついておったけれどももうこのようにも間違いのない、もうまあ皆さんの話は少しは自慢話もあるだろうという受け方もしとったのじゃないだろうか、ところが実際に真のあたり私と生にその手が握られた、生の話を聞かせて頂いたこの感動というものが又、三浦さんの手紙を引用しますとですね。あの晩、堤さんはですね。兎に角、有難くて、有難くて眠れなかったと言うたというて、
いうことが書いてあります。これ三浦さんの手紙、それに書き出しにこういうことを書いております。堤さんがね『勿体無くて、勿体無くて、有難くて、有難くて、嬉しくて、嬉しくて』と重ねて書いております、信心にはねここがなからなきゃならんと思うんですよね。勿論有り難い、勿体無い嬉しくて、嬉しくてとこういう所..ね..その嬉しくて、嬉しくてがあるから信心の修行も又、有り難いんですよ..ね、お参りもする、いわば楽しみなん、信心させて頂く者のの喜び、楽しみなんです、それを嬉しくて、嬉しくて、と表現している、勿体無くて、勿体無くて有り難くて、有り難くてとだからこう云うような内容がです私共の心に有るならね、
出過ぎもなからなければ、引っ込み過ぎも無いだろうと思いますね.....ね。
だから自分で、その出過ぎよりゃせんじゃろうか、引っ込み過ぎ過ぎよりゃせんじゃろうかと、思うことも何ですけれども、この三つの内容が心の中にあるならば、出過ぎもないだろう、引っ込み過ぎもないだろうと、有り難くて、有り難くてというとこにその積極的なものが生まれて来るに違いありません。
ただ、嬉しくて、嬉しくてという時には、やはりそんな人がありますよ、合楽に御縁頂いたことが、有り難うしてこたえん、というような表現をさせて頂いて、それこそ何ていうですか..ね、ご用でも何でも、もうとに角 人がせんごたる御用でもどんどんさせてもろうてその嬉しくて、嬉しくてですがね、けれどもそこにはね、いわば過ぎていわゆる出る釘でうたれるような結果が生まれるわけですね、そういうところから、けれども勿体無くて、勿体無くてというとこにですね、私はこうなんかブレーキが掛かって行くような気がいたしますね、そういう私共が内容を目指させて貰う............。
『出過ぎてはおらんか、引っ込み過ぎてはおらんか。』
私達の出る幕じゃないと言ったようなことを申します、私どん出る幕じゃないというて、引っ込み過ぎとったら、もういわば活動が停止しておるようなもの、ところが( ?)でもない所へ出てきたんでは、やはりお邪魔になる、いわゆる出た釘でありますから打たれるわけです..ね..出る幕..ね.出てはならない幕、その辺のところを私はその兼ね合いを頂いていくという事の為にお互いに一つ本気です、有り難くて有り難くて、勿体無くて、勿体無くてと、嬉しくて嬉しくてと言ったようなものを目指さなければならんのじゃないでしょうか、その堤さんが..ね.初めて私に合うて、もうお話を頂いてのその感動というのはね、お話だけではなくて、その日一日の..ね..いうならば神様が見どうしだといったようなものに触れたからでございましょうけれどもです。
ここでは、皆さんの場合は、何時でもいうならば生の私にこうやって..生の話しをこうやって受けておられる訳ね、けれどもそれがそのそういう感動とか内容に、なっていかないとするならね、三宝様踏んで居るようなことになっておるんじゃなかろうか、頂いておっても、いや聞いておっても頂いてはいないということになるのじゃないでしようか。
そこに感動も何も無い結果が生まれてくるのじゃないだろうかと、いう風に思うのですね
私共が真の道を求め求めして、精進させて頂いております、為にまず真の人を目指さなければなりません、真の人としての..お..内容というか..ね.真の人としてのまあこうでなからなければならんという一つのまあ..お..理想の人格という風に申しますかね。いうのを目指して御陰を頂いて行く、それを具体的に申しますとです、私共が出過ぎもせず、引っ込み過ぎもせず、それこそ「石橋さんこそ、真の人ですなあ」と金光様は押して、
石橋先生をそのように表しておられるが石橋先生のような有り方の中、その内容というものは確かに有り難くて有り難くて、勿体無くて勿体無くて、又は嬉しゅうて嬉しゅうてといったような御内容が,何時もおありになったのではなかろうかと思いますね、石橋氏の御信心の内容の中に、そこに真の人がいよいよ磨き出されて来る訳でございます。
打たれることもなからなければ、というて神様の目にも止まらんといったようなことでもない、適当に神様の目にとまらせて頂きながら、出過ぎも無い、そういう信心をお互い進めさせて頂きたいと思いますですね。 どうぞ
渕上順子